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鉄道おたく旅
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鉄道に乗るだけの旅や鉄道を使った旅や鉄道に関係ない旅や小ネタなど
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別府鉄道廃線跡を歩く(土山~別府~野口)【1999年11月】
1999年11月の鉄っぽいお出かけの記録です

鉄系OFF会に参加して、1984年に廃止となった別府鉄道の廃線跡を歩いてきました。当日はよく晴れた暖かい日で、絶好の廃線WALK日和となりました。たまたまこの日は「加古川ツーデーマーチ」というイベントが催されていたようで、非常に多くの人々がリュックを背負って歩いていました。私たちの集団も途中の大中遺跡公園の前後からそれに取り込まれ、ほぼ同じコースを歩いたこともあって、その先野口に至るまで、いろいろなところでそれらの人々と出会うことになりました。





《土山→別府港》
集合場所はJR西日本 土山駅。この駅は、駅舎や跨線橋の様子、駅前広場がごく小さいこと、トイレが別棟でしかも非水洗であることなどなど、いかにも「古い時代の鉄道の駅」という良い雰囲気を醸し出していました。10:45頃ほぼ全員があつまり、十余名の「鉄」な面々で廃線WALK開始です。
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▲ JR西日本 土山駅

土山駅の出口は線路の北側にあり、一方別府鉄道は国鉄(当時)から南へ分岐していたため、まず駅の西よりにある跨線橋を渡ります。跨線橋より東の方向を眺めると、土山駅構内の東のはずれに広い更地が見えます。これが貨物駅跡で、別府鉄道土山線から輸送されてきた貨物がここで国鉄線に入っていった訳です。国鉄が貨物輸送を縮小したため土山での貨物扱いがなくなり、それによって貨物輸送主体の別府鉄道土山線は廃止へと向かったのでした。「鉄」な面々はいきなり跨線橋から遺跡の撮影会を行い、家族連れを中心とした一般の方々の好奇の視線にさらされました。
跨線橋を越えたあたりから、土山線跡は遊歩道として整備されています。土山線健在の時にはおそらくなかったであろうマンションの横を、鉄道線路跡らしい緩いカーブの遊歩道を歩き、交差点ではなぜか残されたままの線路(踏切跡)で、また撮影会を行ったりしながら、非常にゆっくりとしたペースで進みます。
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▲ 土山線跡の遊歩道

遊歩道は大中遺跡公園の手前で小川を渡りますが、その橋と別府鉄道時代の橋とが同一のものかどうか議論になりました。遊歩道の橋の前後のカーブと勾配が、鉄道には厳しすぎないか、という点がその疑問の始まりでした。橋周辺を丁寧に探索し(^^;、川の真ん中にあるコンクリートの残骸(らしきもの)を見つけ、「あれが橋脚の跡と違うか?」「いや、あれやったら橋の取り付け部分がようわからん」「橋が斜めに架かってしまうことになるで」「当時はこの河川敷はこんなに高くなかったんと違うか」などなど、好き放題な想像をします。そういう論議をしながら一眼レフでの撮影にも余念がありません。ツーデーマーチ参加の何人かが「なんかあるんか?」という様子で寄ってきたりもします。最後にはツーデーマーチの交通整理をしていた地元の消防団の方に尋ねまでしました(でも、結局真相は解明できず)。
大中遺跡公園の中にある「播磨町郷土資料館」に入り、あらかじめ申し込んでいた別府鉄道廃線に関するビデオ2本を鑑賞。1本は沿線の播磨北小学校の生徒の目から見た形で廃線が決定した別府鉄道を紹介したもの、もう1本は廃線フィーバーにわく様子の当時のニュースを編集したものでした。前者では、未電化の別府鉄道の車両に対して「電車」という言葉が頻発していたのがご愛敬でした。後者では、珍しく大雪となった最終日の様子が印象的でした。ビデオ鑑賞の後は、保存してあるDC302とハフ5を見学。「静態保存」ではなく「文化財」として保存してあるそうで、屋根があることもあって、保存の程度は上々でした。それぞれの車内にも入らせて頂き、別府鉄道が現役の頃乗れなかった悔しさをはらします。
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▲ DC302

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▲ ハフ5の外観

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▲ ハフ5の内部

大中遺跡公園を出てからは、廃線跡は一般道の歩道拡張に用いられました。従って単なる道になっています。それでも川崎重工の工場をすぎたあたりの田圃の中に、ワ124の貨車の廃車が農耕具の倉庫として置かれていました。一般の人にとっては単なる汚い物置ですが、私たちにとっては立派な「遺跡」です。下の方をのぞき込んだり、本当に別府鉄道のものだったのか検証してみたり。またまた目立つ行動をとったのでした。
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▲ 普通の人には、単なる汚い農耕具倉庫ですが・・・・

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▲ それについて、いろいろと協議・検証する「鉄」な面々

やがて廃線跡の道路は新幹線と山陽電鉄の高架をくぐります。山陽電鉄の下をくぐるところだけ、道幅がちょうど鉄道路盤分まで狭くなっています。山陽電鉄が上を通り越していることから明らかなように、別府鉄道の方が山陽電鉄より古くからあったのです。旧別府港跡周辺は、国道250号線と幹線道路沿いにありがちな店舗の連続で、ほとんど跡形がありませんでいた。ただ別府鉄道の親会社の多木化学の社宅が、その屋根に別府鉄道車両にもついていた2本の鋤(?)がクロスしたマークを掲げて残っていました。しかし、全く跡形がなくなった訳ではありません。近くの中島公園に別府鉄道のキハ101が静態保存されています。ただこの車両、公園などにおける静態保存にはありがちなのですが、窓ガラスはほとんど割れ、塗装も剥げていて、ちょっとかわいそうなものでした。もちろん背の高い金網で囲まれていて、手で触れることはできません。

《別府港→加古川》
中島公園周辺で三々五々昼食を摂った後、今度は野口へ向けて旧野口線を歩きます。こちらも野口まで遊歩道として整備されています。
再び山陽電鉄と新幹線の高架をくぐり、所々の踏切跡に残る線路を確認しながら歩きます。播磨町郷土資料館で見たビデオでは、別府鉄道沿線には家は少なく、田園風景が広がっていたのですが、現在は遊歩道の左右に一戸建て住宅やマンションが並んでいます。ただその中で若干古めのマンションには「81年7月」という竣工年月の記載があり、このマンションは別府鉄道を知っていることになります。
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▲ 野口線跡の遊歩道に残る踏切跡と線路

小さな公園になっている円長寺駅跡で小休止。ここにはキハ2が静態保存されていました。
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円長寺を発車(^^) し、途中の小川にかかる、ガーダーの残る鉄橋跡(現在は歩行者用の橋)での撮影会の後、遊歩道は普通の道路に合流します。ちょうどこれが別府鉄道野口線と国鉄高砂線の合流の跡で、やがて野口駅跡のモニュメントが見えて、別府鉄道廃線WALKは終了しました。
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by teteg | 2005-11-13 08:50 | 鉄っぽいお出かけ